「博士語」を越えて

|2009/11/27(金曜日)-03:24| カテゴリー: 創作
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 ファンフィクを書きつつ、上原氏のシナリオも読みつつ、ふと思い立ってこんな本を読んでる。
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 アニメや漫画に登場する「博士」の「……じゃ」「……してくれたまえ」のような「役割語」のルーツや機能についての考察。現実にこの話し方をする学者は居ないので、これは「ヴァーチャル日本語」である。
 これを話すことになるキャラクターはステレオタイプとして理解される、あくまでも「脇役」で、物語の中では「助言者」「影」「トリックスター」の役割を振られる。このステレオタイプからはずれた脇役を出すときは、しっかり描写しないといけない……らしい。
 ガッチャマンの1話を見直してみたら、南部博士の登場シーンを見ると、ステレオタイプではあるがケレン味のある登場のしかたをしている。いきなり出てきて見得を切ってるというか。一方、グレンダイザーの1話の宇門博士は、まあオーソドックスな「助言者」演出の範囲に止まっているように見える。
 うまく言えないのだけど、私が見ていて「博士」に萌えを感じる瞬間とは、ステレオタイプから外れたシーンを見た時なのかなぁ。割り当てられた脇役の範囲を超えてキャラが立ち上がってくることを感じた時に、もう少し突っ込んだ背景やらあれこれを考えたい、と思ってしまうみたい。
 きっちり描写するつもりなら、無理にステレオタイプな描写はしなくていいというか、むしろしない方がいいんだろうな。ファンフィクだと、脇役を主役に持ってきたストーリー展開なんて普通にやってるわけだし。逆に、元々「役割語」ですり込まれた強烈なイメージをぶち破るだけの描写をしないと、脇キャラの博士を主役に持ってくるのは難しいのかな、とも思ったり。
 ってことで、ジョーゼフ・キャンベルの神話論とヴォーグラーのシナリオ製作の本を読み込んでおかないとなぁ。セオリー通りにやるとしても、逸脱するとしても、まずは型を知ってからだし。